TUFS Cinema アラブ映画特集『土地と海』を開催
2025.08.06
2025年7月19日(土)、アゴラ?グローバルプロメテウス?ホールにて、TUFS Cinemaアラブ映画特集『土地と海』を開催しました。
今回の上映作品は、今年で開始から50年目となるレバノン内戦(1975年?1990年)によって行方不明となった人々と、その家族が抱える沈黙と苦悩に迫るドキュメンタリーです。映画の冒頭でナレーションをつとめる作家の故イリヤース?フーリー氏(1948年?2024年)は、レバノンの海を、遺体が沈む無数の集団墓地として語っています。本編では、街の風景に家族の「声」が重ねられ、平凡に見える場所に眠る暴力と死の記憶を呼び覚まします。顔を映さず、声と風景だけで構成される映像は、拉致?強制失踪という「見えない暴力」の本質と、それに抗う記憶の回復、そして対話の重要性を静かに訴えかけます。残された家族が求めるのは「真実」と「遺骨」——すなわち故人——を、尊厳をもって迎え入れることです。集団墓地の保存や証言の記録は、忘却に抗う手段であり、紛争後の移行期正義への第一歩でもあります。こうした問題は、レバノンに限らず、ボスニア、イラク、コロンビアなどの内戦後の社会にも共通するものであり、世界各地で起こる紛争の記憶と正義をめぐる課題と深く響き合っています。
本編に先立ち、ダニエル?ルーゴ監督および共同製作者のカルメン?アブー?ジャウデ氏からのビデオメッセージを上映しました。ダニエル?ルーゴ氏からは、ご自身の前作と本作のつながりに触れた上で、本作を見る視点として「日常と過去とのギャップに目を向けて映画を見てほしい」とのメッセージが伝えられました。次に、カルメン?アブー?ジャウデ氏からは、本作の冒頭で流れるイリヤース?フーリー氏およびその書き下ろしの詩についての説明に加えて、本作がもつ「行方不明」や紛争の普遍性?偏在性が訴えられ、私たち日本に住む者にとってもこれらの問題が密接に関係している点が強調されました。
本編上映後、本学の黒木英充教授(アジア?アフリカ言語文化研究所)の司会により、岡部友樹氏(神戸大学グローバル教育センター)と児玉恵美氏(日本学術振興会PD?専修大学)の2名から解説が行われました。
岡部氏の解説では、レバノン内戦の全体像とその背景、さらには映画『土地と海』の主題ともなる暴力と記憶の問題について語られました。同内戦は、1975年から1990年にかけて、宗派制度や経済格差といった国内要因に加え、パレスチナ解放機構の存在、アラブ?イスラエル紛争、国際的な軍事介入といった外部?地域要因が絡み合う中で発生し、泥沼化しました。また、内戦下で行使された暴力の正当化が宗教?宗派の言説に依拠していた点や、同一宗派内でも対立が生じた点に関しても指摘されました。さらに、内戦後の真相究明の動きとして、元民兵によるNGO「Fighters for Peace」や、強制失踪の調査を行う「Act for the Disappeared」などの活動が紹介されました。最後に、映画の詩を朗読した作家イリヤース?フーリーの生涯と、彼が小説を通じて描いた都市の忘却と記憶の再構築についても触れられ、映画の語りが持つ文芸的?政治的意義が掘り下げられました。
児玉氏からは、映画のなかで登場した「語り」に関して、詳細な解説がありました。児玉氏はまず、レバノン内戦によって行方不明となった人々の存在と、彼らが埋められたとされる集団墓地に注目し、映画で取り上げられた証言者たちの語りを紹介しました。たとえば、息子のために大学キャンパスにオリーブの木を植えた母親、兄の行方を探す姉妹、ダームールやシャーティーラー虐殺の生存者など、多様な立場から語られる声を通じて、行方不明者の存在がいかに遺された家族の人生に影を落としているかが明らかになりました。また、内戦後のレバノン社会では、1991年の恩赦法の成立により真実究明や和解のプロセスが欠如し、証拠が埋もれたままの状態にあることが強調されました。最後に児玉氏は、語りによって声なき死者の記憶を呼び起こすことの重要性を強調しました。とりわけ、レバノン内戦の行方不明者は、政党や政治家による「健忘症」という作為的な忘却にさらされてきた存在であること、国家として集合的に追悼されることもなく、家族にとっても個人の死として受け入れがたいという、宙吊りの存在であると指摘しました。
会場からは、恩赦法の内容、とくに集団墓地を掘り起こすことの問題点、紛争後のレバノン政治の様子や、映画のなかのアラビア語?英語?日本語字幕に関する技術的な点、レバノン内戦での「信頼」について、さまざまな角度からの質問が寄せられました.また、上映と講演を通じて、単なる歴史的事件としてではなく、今なお継続する暴力と記憶の問題として本作が観客に深く受け止められたことが、アンケートからもうかがえました。
休日の開催にもかかわらず、本学学生や近隣住民の方、レバノンや中東を専門とする研究者など、併せて146名を超える方が来場してくださいました。最後に、映画上映を快く承諾くださった制作者のお二人、当日運営に尽力してくれた学生の皆さん、ご来場くださったすべての皆さまに心より感謝申し上げます。


